荻原守衛 没後110周年記念 『荻原守衛のデッサン展』

Ⅰ 不同舎時代

ごあいさつ

本年は荻原守衛没後110年にあたります。これを記念して荻原のデッサンを3期に分けて展示いたします。
画家を志していた不同舎時代のデッサンからは、未熟な鉛筆使いから次第に習熟していった様子がうかがえるとともに、荻原の清廉な資質を感じ取ることができます。
留学期のデッサンはどちらも第二次ニューヨーク滞在期(1904年夏~1906年秋)のものと考えられています。1904年5月にパリでロダンの《考える人》を目にし、画家から彫刻家へ転身しました。そして彫刻家としての素養を培うため、とりわけ解剖学研究に力を注いだことが知られています。
やがて日本に近代彫刻の息吹をもたらし、傑作《北條虎吉像》《女》を生み出すことになる荻原守衛の修養の一端を感じ取っていただけましたら幸いです。
4 / 7(火)~5 / 17(日)    不同舎時代のデッサン
5 / 18(月)~6 / 14(日) 留学期の人体・石膏デッサン
6 / 15(月)~7 / 12(日) 留学期の解剖学研究デッサン

2020年4月
公益財団法人碌山美術館

荻原守衛の不同舎時代

1899年(明治32)20才
10月、画家になろうと志し巌本(いわもと)善治を頼って上京。巌本が校長を務める明治女学校の校地内に住む。
画塾不同舎に入り、小山正太郎に学ぶ。 

1900年(明治33)21才
4月、明治女学校校地内の林の中に守衛専用の小舎を建て、深山軒と名付ける。
7月、井口喜源治上京、ともに内村鑑三の夏期講談会に出席。
終了後、井口喜源治とともに富士登山をし、一時帰省する。

1901年(明治34)22才
渡米を決意して洗礼を受け、3月横浜を出帆しニューヨークへ直行する。

企画展 展示作品

荻原守衛のデッサン 不同舎時代 1899-1901

Ⅰ 荻原守衛が通った画塾不同舎(ふどうしゃ)

洋画家・小山正太郎が主催した画塾。塾名は「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」から採られています。
官立の工部美術学校での教員変更の際(1878年(明治11))に連袂退学した浅井忠、松岡寿らと結成した十一字会が発展解消した美術団体です。1883年(明治16)に工部美術学校が廃止されると、1887年(明治20)に東京美術学校が創立されても、1896年(明治29)まで西洋画科は設置されませんでした。そのため、不同舎は西洋画を志す者たちの受け皿となったのです。
画家・河合新蔵が伝えているように、小山は「諸君は三本も四本も無駄な線を引くがよく決心してタンダ一本断然とやるべし」と、一本の線によって形を把握するよう指導し、また小山の教育法は、自身の流儀を教えるのではなく、門人の個性を尊重して伸ばすものだったと伝えられています。

不同舎の仲間たちと 前列右から2人目荻原守衛

前列右から二人目 荻原守衛

小山正太郎

小山正太郎(1857-1916)

長岡出身。1871年政治家を志して上京するも、翌年川上冬崖の画塾で学ぶ。1876年工部美術学校に入学し、イタリア人教師フォンタネージの指導を受ける。最も優秀だったため助手となる。1878年フォンタネージの後任フェレッティの教育法に不満を抱き退学する。
1885年、普通教育に毛筆と鉛筆のどちらを採用するかをめぐり、鉛筆を主張。毛筆を推すフェノロサらに敗れる。1889年、明治美術会の創立に参画。1890年に黒田清輝が帰国し白馬会を結成すると、「旧派」と揶揄される。とはいえ、不同舎からは多くの才能ある者たちが輩出された。

Ⅱ 守衛の入塾

上京した荻原は、明治女学校長・巌本善治に相談し、不同舎で学ぶことを決めました。入塾にあたって同行してくれた長尾杢太郎は、荻原が郷里の相馬家で初めて見た油彩画を描いた人物でもありました。
翌年2月に、荻原は、独学然とした不同舎の教授法に不安を覚えたからでしょうか、巌本に東京美術学校への入学の是非を問うています。これに対し、巌本は、官立の学校は道具が揃い、なおかつ教授法もいいはずなのに少しも人才が出ないことを指摘しつつ、くわえて荻原はそうした学校に向いていないと答えています。

明治32年 11月10日 井口喜源治宛書簡 抜粋

入塾時に小山から「私の所は独学同様の所だがそれで好ければ」と言われた通り、不同舎は独習を旨とした画塾でした。それでも塾生の習熟度に応じたカリキュラムが整備されていたようです。荻原の場合、

1899年11月~12月    鉛筆画

1899年12月~1900年2月 チョーク画

1900年2月~4月     描線のぼかしや馴染ませる表現、石膏像の写生

1900年4月~       野外写生

の順に進んでいきました。

Ⅲ 荻原守衛の感慨

郷里の師友・井口喜源治や兄・望月穂一にあてた手紙には、思うように上達しない自身の腕前に対するふがいなさや、芸術の道を自身の天職として決めていたことが表われています。

1899年12月3日  「ナンダカまづくて更に出来申さず実に閉口、之れでも画がやれるかと苦心中」

1900年1月22日  「お恥かしき義」

1900年2月8日    「画は一代の大業 二月や三月でそーうまく行く訳のものならず先づゆっくりやる考に候」

1900年6月27日   「何の仕事でも十年とはよく申せしものに候 とても十年以下では何事も駄目に候」

Ⅳ 荻原守衛が暮らした明治女学校と深山軒

明治女学校

明治18年創立、41年閉校
羽仁もと子、相馬黒光、野上弥生子らが生徒として通い、星野天知、北村透谷、島崎藤村らが教鞭を揮いました。良妻賢母を育てる近代的な女子教育、ロマン主義的文学、キリスト教思潮等が重層的に響き合った稀有な学校でした。
当時、教育普及が推し進められつつありましたが、それはあくまで男子教育についてであり、女子教育は男子教育と比べて不平等かつ未整備でした。それをわずかながら補ったのが私立の女学校(多くはキリスト教系)でした。こうした時代背景のもと明治女学校は誕生したのです。

明治女学校での生活

上京した荻原が身を寄せたのが明治女学校でした。これは、敬愛する巌本善治が校長を務めており、そのもとで過ごすことが自身の糧になると考えたためです。学校で巌本の講話を聴き、教員から英語を学ぶこともありました。
荻原は女学生との交流について井口喜源治に「予の如き多情の青年独り女学校に置く事は、予を愛し玉ふ先生御心配下さるならんと心苦しく候へ共、ものになるれば却て之れに迷想する事なし。」と記していますが、実際には婚約した女学生がおり、大いに迷想していたのかもしれません。

荻原守衛の住居 深山軒

荻原が明治女学校で仮寓していた建物は学生の教場として利用されることになり、立ち退かざるを得なくなってしまいました。そこで郷里の兄・望月穂一に建設費を無心し、構内のクヌギ林のなかに三畳の小舎「深山軒」を建てました。ここには女学生たちも遊びに来て、荻原はその交友を楽しんだのです。

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