荻原守衛 没後110周年記念 『荻原守衛のデッサン展』

Ⅱ 留学期の人体・石膏デッサン

ごあいさつ

本年は荻原守衛没後110年にあたります。これを記念して荻原のデッサンを3期に分けて展示いたします。
画家を志していた不同舎時代のデッサンからは、未熟な鉛筆使いから次第に習熟していった様子がうかがえるとともに、荻原の清廉な資質を感じ取ることができます。
留学期のデッサンはどちらも第二次ニューヨーク滞在期(1904年夏~1906年秋)のものと考えられています。1904年5月にパリでロダンの《考える人》を目にし、画家から彫刻家へ転身しました。そして彫刻家としての素養を培うため、とりわけ解剖学研究に力を注いだことが知られています。
やがて日本に近代彫刻の息吹をもたらし、傑作《北條虎吉像》《女》を生み出すことになる荻原守衛の修養の一端を感じ取っていただけましたら幸いです。

4 / 7 (火) ~ 6 / 30 (火)   Ⅰ期 不同舎時代のデッサン
7 / 1 (水) ~ 7 / 31 (金)   Ⅱ期 留学期の人体・石膏デッサン
8 / 1 (土) ~ 8 / 31 (月)   Ⅲ期 留学期の解剖学研究デッサン

2020年4月
公益財団法人碌山美術館

荻原守衛の留学期

1901年(明治34)22才
9月、フェアチャイルド家の学僕となる。10月、アート・スチューデンツ・リーグに入学する。

1902年(明治35)23才

孤独と郷愁に悩む。チェイス・スクールに転校し、ロバート・ヘンライに学ぶ。戸張孤雁を知る。この頃、ウォルター・パッチを知る。

1903年(明治36)24才
10月、渡仏。パリで中村不折に会う。脱竜窟と自ら名づけた屋根裏の小部屋に住み、アカデミー・ジュリアンに通学する。

1904年(明治37)25才
サロン・ナショナル・デ・ボザールでロダンの《考える人》を見て深く感動、彫刻への志向強まる。帰米し、アート・スチューデンツ・リーグに入り彫刻のためのデッサンをする。 

1905年(明治38)26才
人道的立場から日露戦争を批判する。このころ柳敬助、白滝幾之助を知る。 

1906年(明治39)27才
2月、高村光太郎がニューヨークに来る。柳敬助と連れだって光太郎を訪ねる。
9月、再渡仏。オランダに立ち寄った後パリに着き、アカデミー・ジュリアンの彫刻部にはいる。五来欣造・斎藤与里(より)・本多功らと親しくなる。

1907年(明治40)28才
1月4日、五来の住むパリ郊外に移る。ポール=ルイ・クシュ―が1月16日付の紹介状で、守衛がロダンに面会できるように仲介している。ジュリアンの校内コンクールでたびたび入賞。
碌山の号を用いはじめる。
7月、静養のためロンドンに旅行し、滞在中の光太郎と美術館めぐりをする。パリに戻り、ウォルター・パッチとロダンを訪ねる。《女の胴》《坑夫》などを制作。ブールデルに会う。
帰国のため年末パリを出発、帰路イタリア、ギリシア、エジプトに立ち寄り、おもに古美術を見る。

企画展 展示作品

荻原守衛のデッサン 留学期 1901-1907

Ⅰ  第1次ニューヨーク滞在期(1901-03年)

1901年4月5日、ニューヨークの地を踏んだ荻原は思ったように仕事に就けず苦労し、一時は死すら考えたと言います。そんな彼を救ったのが、その年の10月から始まった富豪フェアチャイルド家での仕事でした。同家の理解のもと、働きながら美術学校アート・スチューデンツ・リーグに通い始めます。つづいてチェイス・スクールでロバート・ヘンライから表現主義的な描法を学んだとされますが、詳しいことはわかっていません。
不同舎の先輩たちがパリへ渡っていることを聞き及んだこともあり、渡仏を夢見るようになります

Ⅱ  第1次パリ滞在期(1903-04年)

1903年10月、念願のパリへ渡った荻原でしたが、経済的な余裕はなく「パンとバターさえあれば人間は死ぬものぢやない」と言って貧しさを耐え忍んでいたそうです。
当初は画塾アカデミー・コラロッシ、グランド・ショミエールに、つづいてアカデミー・ジュリアンに通いました。ここでは歴史画家ジャン=ポール・ローランスに学んでいます。ローランスは基礎を重んじ、まず腕一本のデッサンを徹底的に行わせ、上達してから身体のデッサンへと移る教育法をとっていました。ローランスが「そろそろ身体を始めたらどうだ」と勧めても、荻原は「手一本卒業しない奴は、何をやつても出来るものではない」と言って腕一本の研究を続けたといいます。

Ⅲ 《考える人》との出会い(1904年5月)

貯蓄も底を尽き、ニューヨークに戻って再び働かなくてはならず、いよいよ帰米するという時、荻原はサロン展の会場でオーギュスト・ロダンの《考える人》と出会いました。我を忘れてしまうほどの感動を覚えた荻原は、後年、その時の感想と彫刻家への転身について次のように述べています。
頭の天辺から足の爪先まで、一点の隙間もなく想に満ちておる。もしも世に人間の想というものが、ある形を採ることがあったならば、その形は必ずこういうものであると感じた。私はこの作品に接して、はじめて芸術の威厳に打たれ、美の神聖なるを覚知して、ここに彫刻家となろうと決心した(適宜表記を改めた)

Ⅳ 友人の伝えるニューヨークでの研鑽

1904年、明治37年(荻原守衛は)仏国から帰ってもニューヨーク・アート・スクールヘは行かずして、アート・スチューデンツ・リーグへ入校し午前はドローイングで有名なケニヨン・カックス氏に就き、石膏から描き始めた(守衛君の遺作中に石膏のドローイングのあるのはこの頃のものである)。ニューヨーク・アート・スクールの旧友はこれを聞いて驚こうか驚くまい事か、かわるがわる君に忠告に来た。しかし決心するところがあるのでこんな事には少しも動かされなかった。米国人の親友ウォルター・パッチ氏なぞは最も熱心家であったが、ついにその動かざる事を知って「では是非もない、将来の芸術舞台でお目にかかろう」と言って断念してしまった。午後はこれもドローイングの細いので有名なブリッジマン氏に就いて人体を学んでいた。

(戸張孤雁「有の儘」『彫刻真髄』、精美堂、1911年。)(適宜表記をあらためた)

Ⅴ 友人との出会い他

第一次ニューヨーク滞在期からの友人・戸張孤雁につづいて、第二次ニューヨーク滞在期には、柳敬助、高村光太郎に出会いました。お互いに切磋琢磨したことは想像に難くありません。戸張はまた荻原の没後、遺稿集『彫刻真髄』の編集に奔走し、碌山芸術を守り伝える上で大きな働きをしました。
荻原は、ニューヨークに戻った際もフェアチャイルド家で働き続けました。クリスマスには同家の夫人と長女から美術書が贈られ、二人は碌山没後に穂高まで墓参に訪れています。
荻原は芸術的才能ばかりではなく、周囲の者たちにも恵まれたていたのです。

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