笹村は、モデルの根源の姿が見える時、モデルが「底光りして」見えたといいます。そしてその姿をできる限りのことをして写し取ったものだけを「作品」、それ以外は「習作」と考えていました。「底光り」の体験は非常にめずらしく、昭和27年の時点で「作品」は《津田非仏》を含めわずかに3点とみなしていたようです。笹村は、荻原守衛と中原悌二郎とを対照的に評し次のように述べています。
碌山は流動的、悌二郎は結晶的、つまり時間と空間という違った領域の中に存して
いるのではなかろうか。もっともいずれも彫刻であると言う意味で時間とか空間と
か区別してみてもU字管のように彫刻という根底は共通であるが
ちなみに、荻原と中原の作品を比較してみると、粘土を延ばしながら造形する荻原、粘土を一点一点付けて造形している中原のタッチの違いがよくわかります。