ごあいさつ

 2020年は、荻原守衛(1879-1910年)の没後110年にあたります。これを記念して、荻原の顕彰ならびに当館の設立に寄与した東京藝術大学石井鶴三彫刻研究室から三人の彫刻家の作品を紹介します。当館の設立当時(1958年)、三人はそれぞれ教授、助教授、助手の任にありました。
 石井は、日本の近代彫刻は荻原と高村光太郎から始まると説き、論考「彫刻の先覚荻原碌山」を発表しています。笹村は、荻原に関する論考を数多く発表して研究を推進するばかりでなく、当館の設立にもプロデューサーとしてその才能を遺憾なく発揮し、碌山館は言うに及ばず、什器、備品、館庭に至るまで趣向を凝らしました。基もまた当館の設立にあたり笹村の調査を手伝い、碌山館の尖塔に掲げられた、荻原の芸術が永遠に続くことを象徴する《フェニックス》を制作しています。
 本企画展示を通して、碌山を顕彰しながらも、それぞれの芸術性を発揮した三人の作品をご覧いただき、日本近代彫刻史の一端を感じ取っていただければ幸いです。

2020年10月
公益財団法人碌山美術館

展覧会会期 2021年3月14日まで開催

企画展 展示作品

展示作品は随時公開します。
著作権の関係上、ホームページでは展示作品の一部をご紹介しております。 

基 俊太郎

笹村草家人

笹村草家人と渋沢敬三

モデルの渋沢敬三は渋沢栄一の孫。父親が廃嫡されたため後継者となり、日本銀行総裁、大蔵大臣を歴任。
昭和23年に渋沢が笹村を訪ね、以来親交を深めました。碌山美術館の設立にあたって笹村は渋沢に助言を仰ぎ、建築会社の選定、寄附の活動が推進されていきました。
渋沢は開館後に顧問の一人となっています。

笹村は、誰にでも感銘を与える渋沢を表現したいという思いで制作を始めるも、笹村自身の不調と渋沢の入院・逝去のため中途で終わってしまいました。それでも、これほど「矛盾なく高きに達し得た」作品はないと、笹村は述べています。

石井鶴三の彫刻観

石井は、荻原以前の明治の彫刻作品を、モチーフの外形のみを再現的に描写したにすぎない「物型模造」と呼び、痛烈に批判しました。そうした当時の彫刻界に対し、荻原が真の彫刻を示したと言っています。また石井は、彫刻について次のように述べています。

彫刻の本質を私は立体感動であるとしている。森羅万象に対して触発する感動のうち
立体性のものをとって彫刻の本質であるとするのである。だから本来無形なのである。
彫刻の作品は有形である。けれどもその有形なのは容れものであって、その内にこめ
られた作者の立体感動が彫刻の本質であって、彫刻を見るということは、作品の有形
のなかにこめられてある無形の本質に触れそれに感応すべき

荻原の彫刻を賞賛する石井ですが、二人の彫刻は一見して違いが感じられます。それは、石井がモチーフから得た作家本人の感動を第一に考えている点で、モチーフの内面に迫ろうとした荻原と制作態度が大きく異なっているからかもしれません。

笹村草家人の彫刻観

笹村は、モデルの根源の姿が見える時、モデルが「底光りして」見えたといいます。そしてその姿をできる限りのことをして写し取ったものだけを「作品」、それ以外は「習作」と考えていました。「底光り」の体験は非常にめずらしく、昭和27年の時点で「作品」は《津田非仏》を含めわずかに3点とみなしていたようです。笹村は、荻原守衛と中原悌二郎とを対照的に評し次のように述べています。

碌山は流動的、悌二郎は結晶的、つまり時間と空間という違った領域の中に存して
いるのではなかろうか。もっともいずれも彫刻であると言う意味で時間とか空間と
か区別してみてもU字管のように彫刻という根底は共通であるが

ちなみに、荻原と中原の作品を比較してみると、粘土を延ばしながら造形する荻原、粘土を一点一点付けて造形している中原のタッチの違いがよくわかります。

基俊太郎の彫刻観

抽象性の高い作品も手掛けた基ですが、本人はジャンル分けして仕事をしているわけではありませんでした。立体造形には具象と非具象がありますが、非具象が即抽象ということではなく、抽象とは、たとえば推古仏に見られるような抽象性を意味すると考えていたようです。「現代の抽象彫刻とは、具象でないということだけだ」と言っています。

基の造形意識は、彫刻だけにとどまらず、建築、造園、家具のデザインにもおよびました。当館の第一展示棟、第二展示棟、杜江館のほか、第一展示棟の椅子も彼の設計です。

三人の彫刻家と荻原守衛・碌山美術館

講演する笹村草家人 1953年11月14日


この年、碌山の彫刻作品が国有化されたことを記念して昭和28年11月中旬、
南安曇教育会と穂高町は共催で「荻原碌山作品展」を開催。この折、石井鶴三の「所感」、笹村草家人による「荻原碌山の今日及将来」と題する講演会が開催された。聴衆は1500人を超えた。

「碌山を偲ぶ会」に参加する石井鶴三 1954年12月15日 (右端・石井鶴三 左から2人目・相馬黒光


『彫刻家 荻原碌山』の刊行に感激した相馬黒光は「碌山を偲ぶ会」を開催した。

碌山顕彰の関係者(三越での展覧会にて)
1957年7月
碌山顕彰の関係者(三越での展覧会にて) 1957年7月


この年、長野県上諏訪、大町、上田を巡回した展覧会は朝日新聞社の主催のもと東京三越本店でも開かれた(7月9日~14日)

碌山館の尖塔《フェニックス》を制作する基俊太郎 1957年夏


笹村草家人から委嘱された作品ができあがると、笹村は石井鶴三に「先生、基がこんなものを作りました」と言ってみせると、石井は手に取って「ほう」とだけ反応したといいます。)

碌山美術館の開館落成式で講演する石井鶴三 1958年4月22日

講演の様子は、碌山美術館設立の記録映像
「碌山美術館の建設のあゆみ」をご覧ください(30:45~)
こちらをクリック

開館した碌山美術館を訪問した渋沢敬三顧問(左から4人目・左から2人目笹村草家人) 1958年8月5日

近代彫刻とは

近代彫刻とは「彫刻のための彫刻」「芸術作品としての彫刻」と言い換えるとわかりやすいかもしれません。近代以前の、物語の登場人物などを表現するための彫刻、建築を装飾するための彫刻、信仰の対象としての彫刻ではなく、純粋に彫刻として存在するために制作された彫刻のことです。

近代彫刻の父と呼ばれるロダンは、多くの傑作を残したばかりでなく、それまでは理解されつつも言語化されていなかった彫刻を構成する要素を術語化しました。
 量(仏:マッス(masse)) 彫刻を塊から見た言葉
 面(仏:プラン(plan))  塊の形が展開していく傾向を表した言葉
 動勢(仏:ムーヴマン(mouvement)) 運動意識から見た言葉
これらの言葉は現在も使われています。

略年譜

石井鶴三

1887
1904

1905

1906

1908

1914
1915

1916

1922
1924
1952
1954
1958
1973

東京市下谷区仲御徒町に生まれる。
不同舎で小山正太郎に絵画を学ぶ。
遠縁の加藤景雲に木彫技法を学ぶ。
東京美術学校彫刻科選科に入る。
「東京パック」の記者となり漫画を描く
アルバイトをする。
美術学校に塑造部が新設され木彫部から移る。
奈良で古美術の研究をし推古仏に感動する。
佐藤朝山の招きで日本美術院研究所に入る。
第二回日本美術院展に出品して院友になる。
美術院同人になる。
春陽会の客員、日本創作版画協会会員となる。
茨木猪之吉らと日本山岳画協会を創立する。
法隆寺金堂再建に従事する。
『彫刻家荻原碌山』刊行に従事する。
碌山美術館設立に従事する。
85歳で没する。

笹村草家人

1908
1920
1927
1931
1932

1935
1944
1948
1952
1954

1957
1975

(明治41)東京市芝区神明町に生まれる。本名、良紀。
日本中学に入り国士猪狩史山から精神的影響を受ける。
東京美術学校彫刻科に入る。
来日したイサム・ノグチを訪ねる。
私淑する高村光太郎が国画会の会員であったので
第七回国画会展に「塑像試作」を出品する。
春陽会で石井鶴三の講演を聴き、師事する。
東京美術学校彫刻科石井教室の助教授になる。
イサム・ノグチと再会する。
石井鶴三に付いて法隆寺金堂再建に携わる。
石井教室編集の『彫刻家荻原碌山』刊行に携わる。
日本美術院から退く。
碌山美術館建設推進に尽力する。
67歳で没する。

基 俊太郎

1924

1942


1943

1945
1949
1950

1953

1955

1957
1960
1984
2005

(大正13)鹿児島県名瀬市に生まれる。
絵を描くのが好きであった。
旧制大島中学校卒業。上京し、受験勉強に専念。
辻永の「本郷研究所」などでデッサンを学ぶ。
東京美術学校彫刻科塑像部予科に入学。
佐世保で終戦。東京美術学校へ戻る。
再興第34回院展《首習作》初入選。
東京美術学校彫刻科を卒業。
再興第35回院展入選、院友に推挙される。
東京芸術大学美術学部彫刻科の助手となる。
再興第40回院展《夏の人》日本美術院同人に
推挙される。 
碌山館尖塔《フェニックス》制作。
東京芸術大学講師を辞し、ニューヨークに遊ぶ。
(財)碌山美術館顧問就任。
逝去。

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