1881年
(明治14)5月5日、千葉県君津市に医師山田文安の次男として生まれる。
5歳の時、親戚の柳家を嗣ぐ。
1901年
東京美術学校西洋画科に入る。入谷に熊谷守一、辻永、和田三造、橋本邦助と一軒屋を借りて共同生活をする。
第7回白馬会に出品する。
1902年
絵画修業のためセントルイス万国博覧会を機に渡米する。
1903年
ニューヨークでアート・スチューデンツ・リーグなどの美術学校に通う。
1905年
荻原守衛、戸張孤雁を知る。
渡米してきた高村光太郎に荻原を紹介する。
1906年
パリを経て9月帰国する。
1909年
荻原から勧められたキリスト者の新井奧邃に傾倒する。
高村光太郎は柳から借りた新井の『読者読』に深い感銘を受ける。
1910年
荻原は柳のために、新宿中村屋裏の洋館をアトリエに改築する監督を引き受ける。
4月20日完成の電報が届き、22日上京したところ急逝した荻原の遺骸に対面する。
しばらくアトリエで制作を続けたが、結婚を機に雑司ヶ谷に移る。
(翌1911年、アトリエには中村彝が入る)
荻原の十三回忌に中村不折と穂高を訪れる。
1923年
5月16日、42歳で没す。
同年9月1日から三越呉服店4階で追悼展覧会が開かれたが、
関東大震災に遭い遺作の大半を焼失した。