1901年(明治34)22才
9月、フェアチャイルド家の学僕となる。10月、アート・スチューデンツ・リーグに入学する。
1902年(明治35)23才
孤独と郷愁に悩む。チェイス・スクールに転校し、ロバート・ヘンライに学ぶ。戸張孤雁を知る。この頃、ウォルター・パッチを知る。
1903年(明治36)24才
10月、渡仏。パリで中村不折に会う。脱竜窟と自ら名づけた屋根裏の小部屋に住み、アカデミー・ジュリアンに通学する。
1904年(明治37)25才
サロン・ナショナル・デ・ボザールでロダンの《考える人》を見て深く感動、彫刻への志向強まる。帰米し、アート・スチューデンツ・リーグに入り彫刻のためのデッサンをする。
1905年(明治38)26才
人道的立場から日露戦争を批判する。このころ柳敬助、白滝幾之助を知る。
1906年(明治39)27才
2月、高村光太郎がニューヨークに来る。柳敬助と連れだって光太郎を訪ねる。
9月、再渡仏。オランダに立ち寄った後パリに着き、アカデミー・ジュリアンの彫刻部にはいる。五来欣造・斎藤与里(より)・本多功らと親しくなる。
1907年(明治40)28才
1月4日、五来の住むパリ郊外に移る。ポール=ルイ・クシュ―が1月16日付の紹介状で、守衛がロダンに面会できるように仲介している。ジュリアンの校内コンクールでたびたび入賞。
碌山の号を用いはじめる。
7月、静養のためロンドンに旅行し、滞在中の光太郎と美術館めぐりをする。パリに戻り、ウォルター・パッチとロダンを訪ねる。《女の胴》《坑夫》などを制作。ブールデルに会う。
帰国のため年末パリを出発、帰路イタリア、ギリシア、エジプトに立ち寄り、おもに古美術を見る。