1907年スケッチブック《ロダンを訪う》

企画展「荻原守衛のパリ時代」

2021年7月24日~9月30日
会場:第二展示棟

荻原守衛(1879~1910年)は、7年間にわたる海外生活のなかで、留学拠点を次のように変えています。
  1901年3月~1903年9月  ニューヨーク
  1903年10月~翌年5月     パリ
  1904年6月~1906年9月  ニューヨーク
  1906年10月~翌年12月   パリ
一度目のパリ留学の目的は絵画修行でしたが、ニューヨークへ帰る直前にロダンの《考える人》に出会い、彫刻家への転身を決意しました。
 しかし、その後のニューヨーク時代に彫刻を制作した記録はなく、二度目のパリ留学から本格的に彫刻家としての活動が始まったと考えられています。この時期の修練は1年数カ月というわずかな期間でしたが、荻原は資質を開花させ《坑夫》を制作し、帰国後の傑作《北條虎吉像》《女》を生み出すに至りました。
 このたびは荻原守衛の第2次パリ時代を、制作した彫刻、ロダンとの面会、友人との交遊、コレクション(写真と書籍)の4つのセクションに分けて紹介します。
 
 ※ホームページでは、展示作品及び展示資料の一部をご紹介しております。

パリで制作した作品

荻原守衛《坑夫》1907年(彫刻

《坑夫》1907年

・《坑夫》をパリの画塾で見た光太郎の思い出
教室の習作にありがちな、いじけたところがまるでなく、のびのびと自由に製作されて、作家の内部から必然的に出てきた作品に見え、あてがわれたポーズという感じがまるでないのにまず驚いたのである。作風はロダンの影響がまざまざと見えるもので、面やモドレや粘土の扱い方までそっくりであるが、それが少しもただのまねごとには感ぜられず、彼自身の内部要求としてつよく確信をもって行われているので、そのロダンじみているところがくにならなかった。そしていかにも生き生きしていた。私も若い頃なので大に感動し、これを習作としてこわしてしまうのは実に惜しいから是非とも石膏にとるようにと彼に極力すすめた。(表記を適宜改めた)
(高村光太郎「荻原守衛」)

《女の胴》1907年

《女の胴》1907年

・《女の胴》 制作エピソード
荻原:あれはね、フランスにいた頃、教室で隣の教室のモデルを取ったんです。生徒が二組に分れて、各一人ずつモデルを使ってたんだが、僕等の方へ来た奴はなっていないんだ。で、隣の方のを見るとすこぶる好い。殊にソファの上にうつむいてる両腋下から腰へ落ちている線が堪らなく好い。そこでコッソリ自分のモデルはほっといて、隣の奴を窃見して突嗟の間に捏ね上げたというもんだ。ところが見付かって大に叱られましてね。「構うものか」といろいろ反抗して見たが、結局僕が敗けて、そのまま止めてしまった。それです。だから御覧の通り首もなければ足も手もない、ただもう胴だけの化物になってしまったんです。しかし僕の眼に強い印象を与えた脇下から腰のあたりへ落ちて来る線の美だけは、自分でもうまくできたと思っているんです。(表記を適宜改めた)
「休憩室」(太平洋画会展覧会でのインタビュー)1909年

友人との交友

・アカデミー・ジュリアンにて(前列左:岡精一、その右:荻原)

・アカデミー・ジュリアンで並ぶ荻原(左)と斎藤与里

夏目漱石の『二百十日』を愛読していた二人は、
互いに登場人物「碌さん」「圭さん」と呼び合 
い、それがきっかけとなり、号「碌山」が生れた。

ロダンとの面会

・荻原とロダン
一回目のパリ留学期にロダンの《考える人》を見て、彫刻家への転身を決心した荻原は、紹介状を用意するなどして当代随一の彫刻家と敬愛するロダンへの訪問の機会をうかがっていた。荻原が最初の面会を果した時期や方法については資料がなくいまだ不明のままである。ただ数回の訪問が確認されており、そのうちの一回はアメリカ人の友人ウォルター・パッチを伴ったもので、ロダンが制作する様子を見ることができたという。
 ロダン美術館には、以下の内容の3通の書簡が残る。
①高村光太郎とロダンのアトリエを訪れることができなかったことの詫び状
②帰国に際し、今後のアドバイスをいただきたい
③最後の面会への御礼

・ロダン宛書簡
明治四十年(一九〇七)十一月十五日 
(ロダン美術館所蔵)

ヴィトリー=シュル=セーヌ
一九〇七年十一月十五日
ヴィラ通十五番
 一筆申し上げます。1週間前どうして先生の許(ユニヴェルシテ通の方です)をお訪ねしなかったのか訳を御説明いたしたいと存じます。
その時、私は、友人の高村という、我国彫刻界の第一人者の息子と一緒だったのです。この男もまた、彫刻家となり、ロンドンから、ほんの数日間だけ先生の作品を学ぶ為にやってきていたのです。勿論、彼は先生の熱狂的讃美者です。
奥様が御親切にもアトリエの方に伺ってお会いするようおっしゃって下さった時、本当にそうしたかったのです。ところが、高村君の是非とも発つべき時刻が切迫しているのに気付いて、この大いなる誉れと喜びとを諦めざるを得ませんでした。これが延期されただけで済むことを望んでおります。
 どうか、この上ない尊敬の気持をお受け取り下さい。
                  荻原 守衛

ユニヴェルシテ通の方=パリ市内のロダンのアトリエ
友人の高村=高村光太郎 
我国彫刻界の第一人者=高村光雲(中島光蔵)(一八五二~一九三四) 仏師・彫刻家、東京美術学校彫刻科教授、帝室技芸員。《老猿》《西郷隆盛像》

奥様=ロダン夫人ローズ・ブーレ
この当時ローズはムードンのロダン邸に居た

・ロダン宛書簡
明治四十年(一九〇七)十二月五日
(ロダン美術館所蔵)

ヴィトリー=シュル=セーヌ
一九〇七年十二月五日
ヴィラ通十五番
 御返事のお葉書拝受いたしました。お礼申し
上げます。
さて、今度帰国の途につくことになり、謹んでお伝えいたします。
 そこで、フランスを去る前に、御挨拶にじきじきにお伺いする訳にはまいりませんでしょうか。とりわけ、少々お話ししてもあまり御無理でないような折にでも、(ユニヴェルシテ通の先生のアトリエか、ムードンかどちらかに)もしお伺いできれば、嬉しいのですが。
 と申しますのも、母国に着きますと、大問題が私の前に立ちはだかることになり、芸術について二、三、先生の御意見を伺えれば、私にとりまして、絶大なる価値を持つからです。
 どうか、この上ない尊敬の気持をお受け取り下さい。
                  荻原 守衛

・ロダン宛書簡
明治四十年(一九〇七)十二月十六日
(ロダン美術館所蔵)

ウォルター・パッチのアトリエ
パリ、カンパーニュ・プルミエール通九番
一九〇七年十二月十六日
 友人が汽車の時刻を間違えた為に、残念ながら、最後のお別れの言葉が、願っておりましたよりも、少々慌ただしいものになってしまいました。
 そのため、申し上げることのできなかったことがございます。私どもが、鈴木春信―女性の内奥の美を表現することにかけては日本で最も秀でた―の絵を選んだのは、先生にとりわけ相応しいと考えているからです。先生は人間の崇高さを驚くべき方法で彫刻に表現する、世界で最も優れた芸術家であるからです。
 先生と奥様とに、こうした二度と忘れ難い作品を拝見するという恩典に与らせて下さったことにもう一度厚くお礼申し上げると共に、私共の格別なる敬意をお受け取り下さいますようお願い申し上げます。
              荻原 守衛
              ウォルター・パッチ

コレクション

展示室では、荻原が滞欧中に買い求めた写真や蔵書を展示しております。

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