ごあいさつ

喜多武四郎(1897-1970)の没後50年を記念し「喜多武四郎展」を開催いたします。
喜多は戸張孤雁に指導を受け、やがて石井鶴三や中原悌二郎が活躍する日本美術院彫刻部で研鑽に励みました。当館でも長きにわたり顕彰している彫刻家の一人です。
 彼の作品の特徴は大きく二つあります。一つは、荻原守衛から戸張孤雁に受け継がれた生命感の表出を旨とするよりは戸張作品に認められる動勢の妙味を踏襲していること。いま一つは、彫刻における立体造形への意識を強く主張した石井鶴三と同種の意識が、構成の抽象性や粘土の付け方に認められることです。
 このたびの企画展では、喜多の代表的な彫刻作品とともに、戸張、石井の作品を合わせて展示いたしました。作品を比較してご覧いただくことで、喜多彫刻の魅力とあわせて、日本近代彫刻の展開の一端を感じ取っていただければ幸いです。

2020年9月
公益財団法人碌山美術館

展覧会会期 2020年10月4日まで開催

喜多武四郎 略年譜

1897

明治30

0歳

12月13日、東京市本所区太平町2丁目91番地の父武英、母き里(桐)の三男として生まれる。父武英は祖父の彫金技術を学び、東京工業高校で教鞭をとり、明治30年頃、喜多鉄工所設立。市議会議員も務める。

1910

明治43

13歳

東京市本所区柳島小学校卒業

府立第3中学校入学

1912

明治45

15歳

この頃から文学や美術に目を向ける

1915

大正4

18歳

東京府立第三中学校を4年で退学、家業の鉄工所を手伝う

事故で手の指2本を切断し仕事ができず絵を描くことが多くなる

1917

大正6

20歳

芸術で身を立てる決心をしたが身体が弱く、母に反対され5月1日家出をする

鉄工所の事務員に紹介してもらった戸張孤雁に師事する

孤雁の勧めで川端画学校へ通う。孤雁を訪ねていた牧雅雄を知る

1918

大正7

21歳

富永主事の世話で川端画学校に寄宿

藤島武二から素描などの指導を受ける

1919

大正8

22歳

谷中初音町に下宿し山本豊一と入れ替わるように孤雁のアトリエに通い、塑像の指導を受ける。孤雁が結核を患い病床にあるときは、看病や所用の手伝いをする

9月、自刻像を再興日本美術院第6回展覧会に出品するが落選

この頃孤雁を訪ねてきた中原悌二郎、石井鶴三らと知り合う

1920

大正9

23歳

9月、第7回日本美術院展に孤雁のアトリエで制作した《K女》が初入選

以後日本美術院展に出品。孤雁の推薦で日本美術院研究会員となり、研究所で石井鶴三から学ぶ。木村五郎を知る

1921

大正10

24歳

研究所で木村五郎をモデルに制作した《K君の肖像》第8回日本美術院展に入選

1922

大正11

25歳

3月、第8回日本美術院試作展に《習作》が入選

美術院研究会員となった橋本平八を知りともに芸術論に没頭する

8月、戸張孤雁の伯父で経済学博士の三浦鉄太郎の媒酌で中川貞子と結婚、下谷湯島天神下に移る

1923

大正12

26歳

10月、第10回日本美術院展覧会大阪展に《無明》が入選

12月、第10回日本美術院展覧会法政展に《無明》と《習作》が入選

関東大震災で生家、湯島天神の家、本所太平町の鉄工所近くにあったアトリエを失い、作品も消失

太平町で板ガラス、硝子器具販売をして生計を立てる。長男英一郎が生まれる

1924

大正13

27歳

1月から再開された美術院の研究所に通う

4月、木村五郎、山本豊一とともに日本美術院院友に推挙される

9月、第11回美術院展に入選。

12月、戸張孤雁、保田龍門と中村彝のデスマスクを取る。山口隆一に連れられて会津八一を訪ねる。 長女澄子が生まれる

1925

大正14

28歳

2月、第11回日本美術院試作展に《女人立像》が入選

7月、長男英一郎が夭折

9月、第12回日本美術院展に入選

1926

大正15

29歳

2月、次男昌一郎が生まれる

9月、第13回日本美術院展に入選

1927

昭和2

30歳

2月、第12回日本美術院試作展に入選。千葉県市川町に転居

7月、戸張孤雁の代作、日本橋魚河岸の震災横死者供養の為の《地蔵菩薩》が完成

9月、第14回日本美術院展に入選。日本美術院同人に推挙される

12月9日、戸張孤雁逝去。孤雁の遺作を保管する

1928

昭和3

31歳

2月、第13回日本美術院試作展

5月、谷中の日本美術院にて彫塑部による中原忌が行われる

9月、第15回日本美術院展

1929

昭和4

32歳

2月、東京府本所区太平町2丁目94にアトリエ完成、同所2丁目91の住居に転居。妻貞子自宅で煎餅を売るなどする

3月、第14回日本美術院試作展

5月、同人作品陳列会

6月、靉光、滝川太郎その他、彫刻家など20名と新団体を組織し展覧会を開く計画をすすめる。この頃から号、寒泉、葺々子を使用

11月、次女陶子生まれる

1930

昭和5

33歳

1月、横山大観、速水御舟、大智勝観、三渡伊送別会が修善寺で開かれ参加

3月、第2回聖徳太子奉賛美術展覧会

4月、大乗美術展覧会

6月、鋳造化伊藤忠雄氏に銀製の花器鋳造を依頼

9月、第17回日本美術院展

   『孤雁遺集』刊行、あとがきや編集に協力

1931

昭和6

34歳

3月、三女恒子生まれる

5月、石井鶴三とともに奈良の古寺をまわる

9月、第18回日本美術院

銀座三昧堂にて個展を開催

1932

昭和7

35歳

3月、第16回日本美術院試作展

   満州派遣軍慰問展覧会

9月、第19回日本美術院展

11月、第2回大乗美術会展

12月、谷中の日本美術院にて行われた戸張孤雁六回忌の世話人となる

1933

昭和8

36歳

2月、第17回日本美術院試作展

9月、第20回日本美術院展

10月、日本美術院同人諸先生作品展

11月、第3回大乗美術会展

1934

昭和9

37歳

2月、日本美術院彫塑部で皇太子誕生奉賀として、宮内省に春瑞額を奉納、武四郎は「万歳」を担当

3月、第18回日本美術院試作展

5月、大礼記念京都美術館美術展覧会

   三男真佐武誕生

8月、次女陶子逝去

9月、第21回日本美術院展

10月、第2回日本美術院同人諸先生作品展

1935

昭和10

38歳

3月、第19回日本美術院

   東京府美術館開館10周年記念総合美術展

6月、帝国美術院新会員の指定に挙がる

8月、木村五郎逝去

9月、第22回日本美術院展

10月、第3回日本美術院同人諸先生作品展

11月、橋本平八逝去

12月、母き理・父武英 逝去

この年、会津八一が顧問を務める木曜会に入る

1936

昭和11

39歳

6月、改組帝国美術院指定を辞退

7月、喜多武四郎彫刻・工芸小品展(銀座三昧堂)『喜多武四郎彫刻・工芸小品集』出版

9月、第23回日本美術院展

1937

昭和12

40歳

4月、明治大正昭和三聖大名作美術展

6月、喜多武四郎彫刻展(銀座三昧堂)

9月、第24回日本美術院展

10月、第一回文部省美術展覧会に喜多寒泉として出品

1938

昭和13

41歳

2月、石井鶴三らと相撲に関する展覧会の会合を開く。

3月、第5回日本美術院同人作品展

5月、相撲彫刻小品展(銀座三昧堂)

8月、北佐久郡岩村田の彫塑講習会に講師として参加

   日本美術院鑑査に出席

9月、第25回日本美術院展

 

1939

昭和14

42歳

3月、第6回日本美術院同人作品展覧会

8月、北佐久郡岩村田の彫塑講習会に講師として参加

9月、第26回日本美術院展

12月、戸張孤雁十三回忌「戸張孤雁遺作展」

1940

昭和15

43歳

7月、北佐久郡岩村田の彫塑講習会に講師として参加

9月、第27回日本美術院展

1941

昭和16

44歳

8月、石井鶴三とともに上田の彫塑会に参加

9月、第28回日本美術院展

1942

昭和17

45歳

2月、軍用飛行機献納日本美術院同人作品陳列会

   財団法人岡倉天心偉業顕彰会に作品寄贈 維持会員となる

9月、第29回日本美術院展

1943

昭和18

46歳

9月、第30回日本美術院展

1944

昭和19

47歳

次女とともに上田へ疎開

1945

昭和20

48歳

4月、東京大空襲の後家族の安否確認の為上京、罹災した石井家を見舞う

10月、第1回日本美術院小品展

1946

昭和21

49歳

3月、次男昌一郎逝去

1947

昭和22

50歳

3月、第2回日本美術院小品展

6月、会津八一近作展に彫刻作品を出品

9月、第32回日本美術院展

1948

昭和23

51歳

3月、第3回日本美術院小品展

9月、第33回日本美術院展

1949

昭和24

52歳

7月、雑誌『知と行』に「彫刻と私と信仰」を掲載

9月、第34回日本美術院展

10月、第5回日展委嘱出品

11月、会津八一古稀祝賀会の為、八一のレリーフ作品の依頼を受ける

    日本現代美術展

12月、喜多の発意によって戸張孤雁二十三回忌記念展を東京藝術大学陳列館にて開催

1950

昭和25

53歳

春、八一のレリーフが完成

9月、第35回日本美術院展

1951

昭和26

54歳

9月、第36回日本美術院展

10月、第7回日展委嘱出品

1952

昭和27

55歳

4月、第7回日本美術院小品展

9月、第37回日本美術院展

10月、第8回日展委嘱出品

1953

昭和28

56歳

6月、近代彫刻展(国立近代美術館)

9月、第38回日本美術院展

1954

昭和29

57歳

9月、第39回日本美術院展

   喜多武四郎彫刻展(中央公論社画廊)

1955

昭和30

58歳

9月、第40回日本美術院展

1956

昭和31

59歳

4月、第11回日本美術院小品展

9月、第41回日本美術院展

11月、会津八一逝去、《会津八一肖像》を制作

   彫刻6人展(中央公論社画廊)

東京国立近代美術館に荻原守衛作《戸張孤雁像》石膏原型を寄贈

1957

昭和32

60歳

4月、第12回日本美術院小品展

1958

昭和33

61歳

5月、財団法人日本美術院の評議員となる

9月、第43回日本美術院展

荻原守衛使用の彫塑台を碌山美術館に寄贈

1959

昭和34

62歳

4月、第14回日本美術院春季展

9月、第44回日本美術院展(文部大臣賞受賞)

   孤雁展(東横デパート)「孤雁について」執筆

1960

昭和35

63歳

4月、第15回日本美術院春季展

9月、第45回日本美術院展

1961

昭和36

64歳

2月13日、日本美術院彫塑部解散。喜多武四郎、石井鶴三、宮本重良、松原松造

村田徳次郎、田中太郎の連名で「日本美術院彫塑部解散について」と題する声明文を同月17日に発表。

1962

昭和37

65歳

3月、石井鶴三邸内にアトリエを開設

1963

昭和38

66歳

坐女を石井鶴三のアトリエで制作

1964

昭和39

67歳

 

1965

昭和40

68歳

中村彝と其の友人展(神奈川県立近代美術館)に出品

喜多武四郎・基俊太郎彫刻展(銀座陶桃苑画廊)で開催

1967

昭和41

70歳

童女頭像を諏訪市美術館へ寄託

1968

昭和42

71歳

彫刻と書の個展(上野松坂屋)

日本画府彫塑部会員となる

1969

昭和43

72歳

東京国立近代美術館に戸張孤雁の彫刻9点、素描14点、版画9点を寄贈

日本画府展

1970

昭和44

73歳

11月28日逝去

 

 

企画展 展示作品

Ⅰ  彫刻家石井鶴三が語る喜多武四郎

喜多君は塑土をとっては一方の雄なり。橋本君(橋本平八)の手が木に触れると木に魂が入る如く、喜多君の手が土に触れると生命なき土に生命が入るから妙だ。《女立像》でも《習作》でも半出来とも見える足の部分の細いところまで、ただの土ではなく生きたものになっているところよくよく味わうべきである。   
『アトリエ』昭和7年10月号

喜多君は粘土に生命を与え、橋本君は木材に生命を与えました。このお二人の作は、まだ幼く弱いかも知れません。だが幼くとも弱くとも生命のあるものは尊く、生命のあるものは育ちます。  
『アトリエ』大正13年10月号

喜多武四郎君の作品は、仕事がじみで外観の花々しいところが少ないから、衆人の注目をひく事が少ないようだが、あの位滋味の深い彫刻は目下甚だ少ないと思う。噛みしめるに従って味の出てくる作である。  
『アトリエ』昭和2年10月号

喜多君に至っては、彫刻の根本がしっかりしています。未完でもやはり立派に彫刻になっています。本当の彫刻家の未成作品は異います。最初の土づけからして彫刻でなければならない。此処大に心すべきところと思う。     『アトリエ』大正14年10月号

Ⅱ  喜多武四郎と関係作家 本展展示作品

戸張孤雁《煌めく嫉妬》1924年
戸張孤雁《虚無》1920年
戸張孤雁《虚無》1920年
猫A
橋本平八《猫A》1922年

戸張孤雁

1882

1898

1899
1901
1902
1906
1908
1910


1911


1916


1917

1919
1927

(明治15219日、東京日本橋の魚河岸で魚介用の箱運送業を営む志村久蔵、
らくの長男として生まれる。本名:亀吉。母の生家を継ぎ戸張姓となる。
日本銀行の給仕になるが絵ばかり描いていた。
神田キングスレー館で片山潜に英語を学ぶ。
絵画修業の目的で渡米し挿絵を研究する。 
アート・ステューデンツ・リーグなどで学び、訪ねて来た荻原守衛を知る。
肺結核を病み帰国。小田原で静養する。
『孤雁挿画集』を出版し洋風挿絵の普及をはかる(序文を荻原が記す)。
友人として唯一人相馬黒光からの連絡を受け、中村屋で荻原を看取る。
荻原の粘土を貰い受け、後を継ぐように太平洋画会研究所彫塑部に入る。
荻原の遺稿集『彫刻真髄』の実質的編集を行う(翌年発行)。
中村屋の「碌山館」に通い、荻原の芸術を守り伝えることに尽力する。
(約5年後、生家の「碌山館」に作品が移されるに際しても尽力)
日本美術院研究所に入る。
平櫛田中、佐藤朝山、石井鶴三、中原悌二郎らと彫塑制作に研鑚する。
第4回再興日本美術院展に《くもり》を出品し同人になる。
山本鼎らと日本創作版画協会を設立する。
病床にて「碌山を憶ふて彫刻界の現状に及ぶ」を執筆する。
129日、満45歳で没。

橋本平八

1897年
1915


1917

1919
1922

1924

1925
1927
1927

1930

1933
1935

(明治301017日、三重県伊勢市に生まれる。       
宇治山田市の彫刻家三宅正直から彫刻を学ぶ。
この頃、ロダンを知る。
尋常小学校の教員となる。
教員を退職し上京。翌年、佐藤朝山の内弟子となり朝山宅に住む。 日本美術院再興第9回展に《猫》を出品し、日本美術院研究
会員となる。喜多武四郎と親交を重ねる。
佐藤朝山宅を出る。日本美術院院友となる。
帰郷し、角前千代と結婚する。
日本美術院再興第14回展に《裸形少年像》を出品。
日本
美術院同人となる。翌年、第15回展に《石に就いて》を
出品。
日本美術院再興17回展に《花園に遊ぶ天女》を出品
著作集の書名を『純粋彫刻論』と決定(1942年発行)
129日、満38歳で没。

石井鶴三

1887
1904

1905

1906
1908
1914
1915

1916
1922
1924
1952
1954
1958
1973

東京市下谷区仲御徒町に生まれる。
不同舎で小山正太郎に絵画を学ぶ。
遠縁の加藤景雲に木彫技法を学ぶ。
東京美術学校彫刻科選科に入る。
「東京パック」の記者となり漫画を描くアルバイトをする。
美術学校に塑造部が新設され木彫部から移る。
奈良で古美術の研究をし推古仏に感動する。
佐藤朝山の招きで日本美術院研究所に入る。
第二回日本美術院展に出品して院友になる。
美術院同人になる。
春陽会の客員、日本創作版画協会会員となる。
茨木猪之吉らと日本山岳画協会を創立する。
法隆寺金堂再建に従事する。
『彫刻家荻原碌山』刊行に従事する。
碌山美術館設立に従事する。
85歳で没する。

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