荻原守衛(碌山)
About Ogihara moriye
写真でみる荻原守衛(碌山)の生涯
Ogihara moriye’s life
荻原守衛(碌山)の生涯と全彫刻作品の紹介動画
在郷時代1879年~1899年
1879年(明治12)12月1日、 長野県南安曇郡東穂高村矢原の農家荻原勘六・りょうの五男に生まれる。本名:守衛(もりえ)。
1893年(明治26)14才東穂高高等小学校を卒業、家業を手伝う。
1894年(明治27)15才11月28日、東穂高禁酒会に入会し、相馬愛蔵・井口喜源治らの強い影響を受け、キリスト教に志向する。
1896年(明治29)17才5月から心臓を病む。夜学会に入会する。
1897年(明治30)18才頃 相馬良(黒光)の家で初めて油絵(長尾杢太郎作《亀戸風景》)を見る。
1898年(明治31)19才 機業家になろうとして出奔し、桐生方面へ向ったが、上田から連れ戻される。11月、研成義塾が創立され、守衛も協力する。盛んに読書する。12月、禁酒会の幹事に選ばれる。
1899年(明治32)20才2月、初めて井口喜源治らと上京。巌本(いわもと)善治を訪問し、植村正久らの説教を聞く。
上京時代1899年~1901年
1899年(明治32)20才10月、画家になろうと志し巌本(いわもと)善治を頼って上京。巌本が校長を務める明治女学校の校地内に住む。画塾不同舎に入り、小山正太郎に学ぶ。
1900年(明治33)21才4月、明治女学校校地内の林の中に守衛専用の小舎を建て、深山軒と名付ける。7月、井口喜源治上京、ともに内村鑑三の夏期講談会に出席。終了後、井口喜源治とともに富士登山をし、一時帰省する。
1901年(明治34)22才渡米を決意して洗礼を受け、3月横浜を出帆しニューヨークへ直行する。
留学時代1901年~1907年
1901年(明治34)22才9月、フェアチャイルド家の学僕となる。10月、アート・スチューデンツ・リーグに入学する。
1902年(明治35)23才
孤独と郷愁に悩む。チェイス・スクールに転校し、ロバート・ヘンライに学ぶ。戸張孤雁を知る。この頃、ウォルター・パッチを知る。
1903年(明治36)24才 10月、渡仏。パリで中村不折に会う。脱竜窟と自ら名づけた屋根裏の小部屋に住み、アカデミー・ジュリアンに通学する。
1904年(明治37)25才サロン・ナショナル・デ・ボザールでロダンの《考える人》を見て深く感動、彫刻への志向強まる。帰米し、アート・スチューデンツ・リーグに入り彫刻のためのデッサンをする。
1905年(明治38)26才人道的立場から日露戦争を批判する。このころ柳敬助、白滝幾之助を知る。
1906年(明治39)27才2月、高村光太郎がニューヨークに来る。柳敬助と連れだって光太郎を訪ねる。9月、再渡仏。オランダに立ち寄った後パリに着き、アカデミー・ジュリアンの彫刻部にはいる。五来欣造・斎藤与里(より)・本多功らと親しくなる。
1907年(明治40)28才 1月4日、五来の住むパリ郊外に移る。ポール=ルイ・クシュ―が1月16日付の紹介状で、守衛がロダンに面会できるように仲介している。ジュリアンの校内コンクールでたびたび入賞。碌山の号を用いはじめる。7月、静養のためロンドンに旅行し、滞在中の光太郎と美術館めぐりをする。パリに戻り、ウォルター・パッチとロダンを訪ねる。《女の胴》《坑夫》などを制作。ブールデルに会う。帰国のため年末パリを出発、帰路イタリア、ギリシア、エジプトに立ち寄り、おもに古美術を見る。
帰国後1908年~1910年
1908年(明治41)29才3月帰国。4月に京都・奈良を見学する。太平洋画会に属し、新宿にアトリエを建てる。戸張孤雁と再び親交深まる。中原悌二郎・中村彝らを知る。相馬良(黒光)との精神的愛染に苦しむ。
第2回文展に《女の胴》《坑夫》《文覚》を出品する。《文覚》のみ入選。
1909年(明治42)30才《デスペア》《北條虎吉像》《戸張孤雁像》《香爐》《労働者》《爺》《小児の首》《宮内氏像》などを制作。第3回文展に《北條虎吉像》《労働者》を出品する。
1910年(明治43)《銀盤》《女》を制作する。柳敬助の画室を設計監督する。4月20日の夜、新宿中村屋で吐血。22日朝、満30歳5ヶ月で永眠する。 生家の墓地に埋葬される。第4回文展に《女》が出品され、文部省に買上げられる。ロンドンで開かれた日英博覧会に《宮内氏像》が出品される。