ごあいさつ
笹村草家人(ささむら そうかじん 本名:良紀、1908-1975)は、東京美術学校塑像部を卒業、戦時中に教授・石井鶴三のもと東京美術学校の助教授を務め、再興日本美術院彫塑部で活躍した彫刻家です。笹村は彫刻の道を探求するかたわら、1953年に南安曇教育会に組織された荻原碌山研究委員会の指導者として迎えられ、荻原の事蹟の彫り起しとカード化、『彫刻家 荻原碌山』の刊行、作品保全とブロンズ化、碌山美術館の創設の中核を担いました。モデルの内側に確乎として存在する根源の姿を写しとることを求めた笹村。それが達成できたのは生涯でわずかに三点のみと考えるほど、その探求する姿勢は厳しいものでした。その厳しい姿勢は、美術学校の助教授という教育者としても、荻原守衛の顕彰・普及に努め、禅宗の僧侶についての書籍を編集・刊行する研究者としても、一貫しています。その一方、碌山美術館創設に建築家として関わった今井兼次は、笹村設計のグズベリーハウスや美術の倉が来館者の心に愉しく親しみあるものを与えているとし、笹村に「きびしさと愛情に満ちた天性の資質」を読み取っています。このたびは没後50年を機に収蔵作品を主に展示します。笹村が探求した彫刻の世界をご覧いただくとともに、碌山美術館、グズベリーハウス、美術の倉に漂う笹村の類まれな感性を感じ取っていただけましたら幸いです。
2025年9月公益財団法人碌山美術館
展覧会会期 2025年11月30日まで開催
笹村草家人年譜
展示作品リスト
《津田非仏居士》1937年モデル・津田寿一は父親の静坐の先輩であり、また父親が歌の添削をした人物。津田はのちに「静坐のほか役に立ったものはなかった」と述懐している。鐘紡を辞め知恩院に隠棲していた津田を訪ねての制作。このときほど苦しい制作はなかったという。というのも、制作の疲れのため肋膜炎再発の徴候が現れ、友人たちが相次いで応召していたので、召集がいつ届くかと不安であり、さらに津田を尊敬するあまりなかなか満足のいく制作ができていないという三重苦に苦しんでいた。そんな中、モデルが「底光り」し、その根源の姿が見えたという。
《岡三保子刀自》1940年岡家は代々幕府の侍医であり学者を庇護した家柄。賀茂真淵もその一人。笹村の祖父や父もその庇護を受けた。笹村は岡について「この人程風雅の趣きを深く湛えた人を前後にみたことがない。日常の衣食住まで深い味合をもち洗練の美をひそめていた」と記している。
《激怒せる天使》1952年ジョットの描く人物を想わせる女子学生がモデル。「戦中戦後にみせられた非行で覆われた現世を怒る心が天にあるという観念を現はそうとする意欲」から制作。木の骨組みの外側に外形を決める針金を引いたので、その隙間から粘土を付けねばならなかった。
《遠山元一先生》1959年遠山は、日興証券創設者、また日本証券業協会連合会会長などを歴任した人物。その邸宅とコレクションが遠山記念館となっている。遠山から肖像制作を依頼されるも「その重厚沈毅な人柄をどうしたらあらわし得るかと約半年黙考し」た。かすかに前傾する胸像を計画し、その通りの心棒を鉄で打たせて4月から制作した。早朝に30分ほど遠山邸でモデルになってもらった。21回に及んだ時に入院され中断、再開を待ちながら秋になり暮になってみると「いささか良い出来」のように思えたという。
《津田左右吉先生米寿像》1960年津田(歴史学者、早稲田大学教授)は「隠士のよう」でその「顔面に不思議な微光があり頭は玉のように見えた」という。28回ほど制作のため津田邸に通うも調子を崩し静養。その後再開しようとすると津田が入院してしまい断絶。
《最後の渋沢敬三先生》1963年1948年に渋沢が笹村を訪ね、以来親交を深めた。碌山美術館の設立にあたって笹村は渋沢に助言を仰ぎ、建築会社の選定、寄附の活動が推進され、開館後に渋沢は顧問の一人となった。笹村は、誰にでも感銘を与える渋沢を表現したいという思いで制作を始めるも、笹村自身の不調と渋沢の入院・逝去のため中途で終わった。それでも、これほど「矛盾なく高きに達し得た」作品はないという。