会期 2021年3月28日~5月16日
会場 第二展示棟

中原悌二郎の彫刻

 中原悌二郎は絵画研究をしていた1907年、ロダンの《考える人》の写真版を手に入れ魂を大いに揺さぶられました。1908年に荻原守衛が帰国するとその作品や芸術談を通してロダン芸術の真髄を吸収し、ほどなく彫刻家としての歩みを始めることになります。
 当時はロダンの作品はまだ日本になく、中原は「死ぬまでにたった一目でも」と渇望しますが、その願いが叶ったのはようやく1912年になってからのことでした。前年にロダンから白樺派に寄贈された三作品(《マダム・ロダン》《ゴロツキの首》《小さき影》)を第四回白樺美術展で見ることができたのです。中原はこの三つの彫刻が「自分等の行くべき道を指示し、かつ確信を与へてくれた」(1913年)と述べています。その後もロダンの彫刻写真のほか、高村光太郎や木村荘八の翻訳書を愛読することで、ロダン芸術への傾倒を深めていき、ついに「ロダンの芸術は自然そのものの如く真実である」「私は(ロダンの)模倣を以て甘んじましょう」(1916年)と述べるにさえ至っています。
 こうしたロダンへの傾倒は《女のマスク》(1910年)から《墓守老人》(1916年)に見られるロダン的な流動性の感じられるタッチに表われています。ところが、《行乞老人》《若きカフカス人》《平櫛氏像》のタッチは、ロダンのような流動性が感じられず、粘土を流さずに一点一点断定的に粘土を付けていったような感じを漂わせるものに変化しています。ロダンを目指しながらロダンから離れるような中原独自のタッチが生まれたプロセスはよくわかりませんが、いずれにせよこの三作品が日本の近代彫刻に高い領域をもたらしていることは確かです。
 中原の作品は胸像が多いこともあって、それぞれの特質を比較検討しやく、制作順に鑑賞していくと、段階的に作品のクオリティが確実に高まっていくのを感じ取っていただけると思います。

中原悌二郎 略年譜

1888年
(明治21)10月4日、北海道釧路町に荒物雑貨商を営む中原忠四郎、たきの次男として生まれる。
9歳で旭川町二条通で雑貨商を営む叔父中原茂助の養子になる。

1902年  14歳
札幌中学校に入り林竹治郎に絵を学ぶ。

1905年 17歳
画家を志し出奔、上京する。

1906年 18歳
赤坂溜池の白馬会洋画研究所に入る。中村彝、鶴田吾郎、野田半三などを知る。

1907年 19歳
太平洋画会研究所に移る。

1908年 20歳
中村彝らと荻原守衛のアトリエや中村屋をたびたび訪ねて強い影響を受ける。
堀進二から彫塑用具を借りて胸像を造る。
荻原の夭折を機に彫刻に転じ、新海竹太郎の指導を受けるものの、
写真で見ていたロダンの作風に惹かれる。

1912年 24歳
第4回白樺美術展で初めてロダンの実作を見て感動する。
岡田虎二郎の静坐会に入り、岡田の人格に敬服し熱心に通う。

1914年 26歳
喀血し、療養のため旭川に帰る。この頃ロシア文学に傾倒する。
ドストエフスキーの理想にまで高められた写実を願望する。

1915年 27歳
再上京。

1916年 28歳
日本美術院研究所に入る。平櫛田中、佐藤朝山、石井鶴三と彫塑研究に励む。
第3回再興日本美術院展に《石井氏像》を出品、樗牛賞を受け院友になる。

1918年 30歳
《行乞老人》を出品し、同人となる。
中村屋に寄宿する伊藤信と中村彝の仲立ちで結婚する。

1921年
3月28日、満32歳で没。

企画展 展示作品 

ホームページでは展示作品の一部をご紹介しております。

女のマスク 明治43年(1910)

1910年のおそらく夏までの制作。この前に一作あったが不詳。モデルは、梳手(明治大正期に日本髪を結って歩く髪結が到着する前にお得意の髪を解いて結い癖を直すため梳櫛ですく)の娘。
流動的な肉付けが特徴的で、細部は作らず大体の塊を掴むことを目的にしていると考えられる。当初から対象の構造を捉えるセンスに優れていたことを偲ばせる。

老人 明治43年(1910)

第四回文展入選作。1910年のおそらく秋までの制作。《女のマスク》と同じく流動的な肉付けであるが、細部表現を全体のなかに統一することに成功している。彫刻を始めてわずか半年でこのレベルに達することはなかなかないが、画家を志していた頃の修練がそれを可能にしたと言える。

石井氏像 大正5年(1916)

モデルは彫刻家・石井鶴三。モデルを雇う余裕のない若者はしばしば互いにモデルとなった(石井の《中原悌二郎像》も現存する)。初夏から9月初旬(3,4ヶ月)にかけて納得いくまで三回作り直したということもあり、形が整理され造形に必然性が感じられる。この作品の完成に友人の中村彝は「萬歳だぞ、中原、とうとう君は素晴らしいものを造ってしまった」と叫び、有島生馬はパリでも見劣りしない作品と激賞している。中原はこの作品で日本美術院の院友に推挙された。

墓守老人 大正5年(1916)

朝倉文夫から《墓守》のモデルを紹介され制作した。第十回文展では落選。翌年の美術院の試作展では奨励賞を受けている。
全体として《石井氏像》のような徹底さが感じられず、失敗作と見る向きもある。が、瞼、こめかみ、頬骨などの強調された描写や、首を前傾させ長さを強調することで頭部が胸部から離れ結果として像が大きく見える点などに、ロダンが述べるところの増盛法(アンプリフィケイション)の導入が見てとれる点や、《老人》に見られるような平滑な流動性ではなく、指痕を線状に残す粗々しい流動的タッチを採用している点に、中原の新たな試みが読み取れよう。

行乞老人 大正7年(1918)

初夏から8月末まで、佐藤朝山のアトリエで制作。これまでの二つの「老人像」に比べ、顔の傾きも少なく左右対称に制作されている。これに加えて構造が堅牢な印象を与えるものとなり、あわせて《老人》や《墓守老人》のような流動的タッチではなく、一点一点を定着させるようなタッチに採用することで、確固たる存在感を漂わせる作品へと仕上がっている。この作で同人に推挙された。

憩える女 大正8年(1919)

現存する中原唯一の全身像。4~6月、日本美術院の研究室で制作。
中村彝は「彼はルノアールが色彩によって成就した愛と恍惚の情緒をば、粘土によって見事に表現し、生きた女の体躯に潜むあらゆる精神的喜悦と、大なる均斉とを示そうとしたのである。既に深き沈潜の美を知り、ひたすら充実せる滋味と調和とを欣び求めていた彼にとっては、殊更に烈しい動作や作為されたる身振を弄して、気まぐれな感激を追う必要も余裕もなかったのである。そうした一時的なものよりはむしろもっと非効果的な平凡な姿態の中に、より常住な、より強健な美のある事を知っていたのである。」と述べる。(適宜表記を改めた)。この作で同人に推挙された。

若きカフカス人 大正8年(1919)

モデルはロシア革命の混乱期に日本へ渡って来たコーカサス出身の若者ニンツァ。相馬黒光がロシア語が出来たこともあって、しばらく新宿中村屋に逗留していた。8月、中村彝のアトリエで制作。ニンツァの心変わりから制作は中途で終ったと言われるが、確固とした構造の把握が素晴らしく、大正彫刻の白眉と称される。芥川龍之介は「誰かこの若者に恋する者はいないか。この若者はまだ生きているぞ」と評した。

平櫛氏像 大正8年(1919)

モデルは日本近代木彫の雄・平櫛田中。10月初め、平櫛田中の工房でお互いに肖像を作り始めるも、平櫛が法事のため帰郷、中原は病状が悪化。ついに粘土は乾いてしまい、そのままとなった。後頭部には割れが生じていたが、平櫛が粘土を詰め、石膏にとった。中途で終わった作品とはいえ、塊としての彫刻の強さが感じられる傑作。写真を見たブールデルは「これが彫刻だ」と評した。

保田氏像 大正4年(1915)

《老人》以後の五年間の作品は現存しない。おそらく中原が壊したのであろう。この作品にも満足できず放ってあったのをモデルの保田龍門(彫刻家、息子に保田春彦)が石膏に残した。肉付けは以前ほど流動的なものでなくっている。細部と全体の調和は《老人》ほど成功していないが、探求ぶりが感じられる作品と言える。

三宅氏像 大正5年(1916)

モデル・三宅辨次郎は岐阜の素封家。息子の伊三郎が静坐で中原と知り合い、父の像を作らせた。この年の春に制作。
絵画的な目の表現をはじめ、中原の作品のなかで表面的な描写が最も目立つ。《坪井氏像》と同様の密度感が感じられることから、モデルが友人の父親であったため細かな描写をしてしまったとも考えられる。

坪井氏像 大正5年(1916)

モデル・坪井経蔵は終戦後まで葉山で幼稚園を経営した人物。彼は、中原と同じく岡田虎二郎の静坐に通っており、そこで知り合いになった(岡田は心身修養法として「岡田式静坐法」を創始し、日暮里の本行寺を借りて静坐会を始めた)。この年の春に制作。
《保田氏像》から約一年後の制作。内側からの漲り、密度感の高い粘土付けなどの成長を見て取れる。

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