三つの碌山館 (荻原守衛顕彰の110年)
「若し芸術の聖地という言葉があるとすれば、私は本日ここにこの言葉を惜しみなくささげたい気持ちで一杯であります」。この言葉は、碌山美術館開館落成式で述べられた、東京国立博物館長・浅野長武の祝辞の一節です。 荻原守衛(碌山)の作品は、荻原没後、新宿中村屋の「碌山館」、つづいて家族が生家に建てた「碌山館」で展示・公開し守り伝えられました。その後地元の教員たちが美術館設立の気運を高め推進しました。 南安曇教育会(現・安曇野市教育会)は1953年、荻原守衛の人と芸術を一層広く伝えるため、「荻原碌山研究委員会」を立ち上げます。委員会は、東京芸術大学彫刻科助教授、笹村草家人を指導者に迎え、研究・顕彰・作品保存を三つの柱にして活動を行いました。研究は精力的に進められ、翌年の『彫刻家荻原碌山』の刊行に結実しています。 1955年には、作品保存の観点から全作品をブロンズ化し、碌山を顕彰する流れは財団法人碌山館設立委員会へと発展しました。建設にあたっては、南安曇教育会、穂高町、東京方面の関係者とが連携することで進行し、寄附金は長野県内の小中学生へも呼びかけられ、児童の5円、10円の協力を含む29万9千100余名の力よって碌山美術館は1958年4月22日に開館しました。
荻原守衛顕彰の歴史
1910年(明治43)4月22日、荻原守衛(碌山)急逝。
1910年(明治43)~ 新宿の角筈にあった碌山のアトリエを、新宿中村屋の敷地内に移築、2階屋に改築。「碌山館」と名付け、碌山の作品を展示し一般に公開した(相馬家が管理)。
1917年(大正6)次兄荻原本十によって遺作、遺品が碌山の郷里・穂高の荻原家に送られ、長兄の荻原十重十は母屋の南に十坪の平屋を建てて作品を収め、東京と同じく「碌山館」と名付けて一般に公開(家族が参観の便をはかる)。
1953年(昭和28)南安曇教育会に荻原碌山研究委員会が発足。指導者に東京藝術大学助教授の笹村草家人を迎え、調査研究を進める。翌年『彫刻家荻原碌山』上梓。
1955年(昭和30)研究委員会を碌山作品保存会として、作品のブロンズ化と全作品の保全修復が進められる。
1957年(昭和32)財団法人碌山美術館設立委員会が出身地の穂高町、南安曇教育会を中心に組織され、寄附募集を行う。東京藝術大学、東京国立博物館、東京国立近代美術館の協力を得て、美術館建設に着手。荻原生家より石膏原型・絵画・資料が全寄贈される。
1958年(昭和33)4月22日、碌山美術館開館。
新宿中村屋時代の「碌山館」 1910年~1917年
写真に写っているのは荻原の親友、戸張孤雁(左)と柳敬助(右)