生誕140周年記念 柳敬助展
会期 2021年5月22日~7月18日会場 第二展示棟
柳敬助(1881~1923年)は、明治大正期に活躍した洋画家です。幼いころより絵の才能を認められ中学校では堀江正章に絵を学び才能を磨きます。1901年に東京美術学校西洋画科へ入学、黒田清輝に学んでいます。ここでは外光派的な油彩画を制作していました。 1903年、絵画修行のため渡米をもくろみますが黒田に時期尚早といさめられます。しかし、思いは強く、美校を中退しアメリカへ旅立ちました。6年に及んだ留学のなかで、荻原守衛、高村光太郎らと巡り会い、その友情は終生続くことになります。この時代は、通っていた画塾の教師ロバート・ヘンライから大きな感化を受け、大胆な筆致で描いています。 帰国後の柳は、穏やかな筆遣いで肖像画家として活躍します。ところが、1922年春、急に体調を崩し、42才の若さで亡くなってしまいます。友人たちは日本橋三越本店で追悼展覧会を企画しますが、初日に起こった関東大震災により40点弱の優品が焼失してしまいました。 生誕140年を迎え、本企画展では、東京美術学校時代、留学期、帰国後の三期に分け、柳の画業を振り返ります。画風の変化と合わせ、モデルの内面に迫ろうとする柳敬助の確かな筆遣いをご鑑賞ください。
柳敬助 略年譜
1881年(明治14)5月5日、千葉県君津市に医師山田文安の次男として生まれる。5歳の時、親戚の柳家を嗣ぐ。
東京美術学校西洋画科に入る。入谷に熊谷守一、辻永、和田三造、橋本邦助と一軒屋を借りて共同生活をする。第7回白馬会に出品する。
1902年 絵画修業のためセントルイス万国博覧会を機に渡米する。
ニューヨークでアート・スチューデンツ・リーグなどの美術学校に通う。
1905年 荻原守衛、戸張孤雁を知る。渡米してきた高村光太郎に荻原を紹介する。
1906年 パリを経て9月帰国する。
1909年 荻原から勧められたキリスト者の新井奧邃に傾倒する。高村光太郎は柳から借りた新井の『読者読』に深い感銘を受ける。
荻原は柳のために、新宿中村屋裏の洋館をアトリエに改築する監督を引き受ける。4月20日完成の電報が届き、22日上京したところ急逝した荻原の遺骸に対面する。しばらくアトリエで制作を続けたが、結婚を機に雑司ヶ谷に移る。(翌1911年、アトリエには中村彝が入る)荻原の十三回忌に中村不折と穂高を訪れる。1923年5月16日、42歳で没す。同年9月1日から三越呉服店4階で追悼展覧会が開かれたが、関東大震災に遭い遺作の大半を焼失した。
企画展 展示作品
ホームページでは展示作品の一部をご紹介しております。
美校時代の作品
《手拭を被っている女Ⅱ》美校時代
《農夫》美校時代
《読書》美校時代
留学時代の作品
《人体デッサン》留学時代
《人体デッサン》美校時代
《男肖像Ⅰ》留学時代
《婦人Ⅱ》留学時代
《婦人Ⅲ》留学時代
帰国後の作品
《自画像》1910年
《荻原守衛肖像》1909~1910年
《T氏像》1913年
《椅子に凭(よ)りて》1913年
《順子(よしこ)像》1920年
《井口喜源治肖像》1922年